おせち料理・歴史

※本ページにはプロモーション広告が含まれています。

おせち料理の歴史について

おせち料理のおせちは、「御節供(おせちく、おせつく)」または「節会(せちえ)」を略して「おせち」と言う名前になりました。

 

古くは奈良時代に天皇を中心に行われた公式的な行事「五節会」で振る舞われた料理「御節供」が、
現在のお節料理の原型になったと言われています。

 

ただ奈良時代の五節会で出された「御節供」は、現在のようにお重に入ったものではなく、高盛りに盛ったご飯や料理の数々でした。

 

そして朝廷内で行われていた「五節会(ごせちえ)」が、公家以下の一般庶民も真似て「五節供(ごせっく)」が行われるようになり、
その五節供で出された料理全てを「御節供」と呼ばれるようになったが、
その中でもお正月の最もおめでたい日の節句に出される正月料理を指すようになりました。

 

さらに江戸時代になると、おせち料理は、床の間に飾ったり、家族で食べたり、年始に訪れたお客様に振る舞われるようになりました。

 

その後1853年(江戸時代末期)頃になると、おせち料理は飾るだけのものとなり、
現在のようにおせち料理がお重に詰められたものに変化して行ったのは、明治時代に入って以降の事です。
ちなみに明治時代の文献では、お膳に備えた煮物を「御節」。重箱に詰められた料理を「食積」と呼んでいました。

 

そして「御節」と「食積」の融合が完全に確立したのは、昭和20年以降。
つまり戦後、デパートで豪華な重箱に入ったおせち料理が売り場で展示販売されるようになった影響からとも言われています。